
WXIII 機動警察パトレイバー
2002/日本 監督:遠藤卓司、高山文彦 脚本:とり・みき
⇒☆この映画を、【TSUTAYA DISCAS】でレンタルする☆
このブログの前身だったシネマサイトでは、『WXIII 機動警察パトレイバー』の感想をこう綴った。
『押井節から毒気を抜いて無難に小粒に手堅くまとめたな、が最初の印象。手放しで誉めるところはないけど、文句を付ける所もなし。確かに、「なんで今頃パトレイバー?」って気はしたけど。特車2課のメンバーが脇になってるけど、「そういう作りの話だ」と思えば、それはそれでいいかな、と言う感じで』
そう、確かにこの映画は、『パトレイバー』としての体裁は整っている。ロングショットに耐えられる、計算された画面構成。単調に見えて実は味のある静寂な間。川井憲次の音楽や、お約束の下町の風景、警察機構の描写、そして特車二課の面々。「この映画はパトレイバーですよ」という記号が丁寧にちりばめられ、観る側へのアプローチに抜かりはない。
完成された世界観へ、別の角度から切り込むのは昔からある手法だし、事実、どの角度から観ても『パトレイバー』と言う世界は、『パトレイバー』として認識できるほど固まっている。
しかし何度か観るうち、私は怒っていることに気がついた。「映画として安心して観れる構成」や「引き金は狂った母親の情」と言う、ある種口当たりの良いもので目隠しをされていたようだが、気がついた時これはちょっと看過できないと思った。何よりも『パトレイバー』であるべき一番肝心な物がない。
怒りの矛先は、主人公である秦、そして「秦」と言う人間を造り上げた制作スタッフへ向けられている。
秦と言う若者。未熟者らしく、情と仕事の区別が付かない点は、まあ考慮しよう。冴子をスタジアムへ連れていくのも、百歩譲って目をつむる。しかし、現場に連れて行き、秦は何がしたかったのか。そもそも、駆け上がろうとする冴子を、何故止められなかったのか。
現職の警官が真っ先に行うのは、被疑者の保護でないのか? 連れてきた以上、秦はどんな手を使ってでも、止めるのが道理ではないのか。しかし、彼はそれをしなかった。ただ漫然と現状を眺め、そして結末は、冴子の死。
しかも、その後の秦は何をしたのか。彼は、職務を全うできなかった事に悔やむことも、冴子を死なせた後悔もない。真相を世間へ知らしめる手段も、内部告発やマスコミへの公表でなく、機密画像を匿名掲示板への垂れ流して終わる。そして普通の顔をして、安穏と職務へ復帰した(墓参りのシーンはあったが、あれは単なる「『墓参りのシーン』と言う記号」であり、秦の心情を表したとは思えない)。
秦は、冴子と何度も会っていた。それなりの情も持ち合わせていただろう(でなければ、先輩刑事の忠告に逆ギレすることはない)。しかし、秦と言う人間は、冴子の本当の痛みを理解できていたのだろうか。冴子の過去を追い続け、結局、何を得たのだろうか。
警察官としての職務の責任の意味も考ず、死の意味も考えない。あらゆる責任を放棄した男に、「自分もあの事件では傷ついたんだ」とタバコをふかさてれも、観てる方は何の感情もわかない。
秦は、彼女の存在を『感傷』と言う想い出に都合良く塗り込めた。彼にとっての冴子は、被疑者でも、「廃棄物13号」を生みだした科学者でも、我が子を喪った母親でもない、ましてや恋人でもない。ただ、ライターを忘れただけの女であり、その死は、ライターより軽かったのか。
作品の精神(ハート)を置き去りにしたこれは、『パトレイバー』と言う皮を被った、別の映画だ。映画全体から醸し出す雰囲気が好きだし、題材も好みだが、それとこれとは別の話。
あのスタジアムのシーン、階段を駆け上がろうとする冴子。もしその場に居たのが秦ではなく、野亜や遊馬だったら? 普段はっちゃけている彼らだが、『警察官』であることを忘れないだろうし、それ以前に一個人として成すべき事をするだろう。
【人気ブログランキング!】私が『パトレイバー』と呼ぶものは、その中にある。
スポンサーサイト